まちづくりについて書いてみる。もう少し正確に言えば、建築設計を学んだものが携わるまちづくりについて。
地方都市・浜松に来て建築設計事務所を設立する傍ら、まちづくりにも関わってきた。所謂まちづくり活動が何を指すのか、ウィキペディアによれば、
"「ある地域(まち)が抱えている課題に対して、ハード・ソフト両面から課題の解決を図ろうとするプロセス」と捉えられていることが多い。また、多くの場合、まちづくりは住民が主体となって、あるいは行政と住民とによる協働によるもの、といわれる。ただし、民間事業者が行う宅地開発なども「まちづくり」と称している場合がある。"
とされているが、意味に振れ幅のあるバズワードであるということである。
浜松という小さな社会で様々に出会う人に自分を説明する時、「建築設計とまちづくりに携わっています」という言葉をなんとなく使ってきた。
建築家が、「まちづくりに携わっています」という時のその言葉の持つニュアンスはなんとも伝えにくい。専門家(東京)に向けてはきっと「建築設計だけしてても建築界はいい方向に変わらないからもっと社会にできることを探したいんです」的なニュアンスで受け取られる。例えば一般市民、あるいは行政の人間に対しては「箱物には限界があるから人間や状況を考えたいんです」的な受け取られ方をする場合が多い。建築に対して限界を感じながら凡てを否定することなく、且つ建築ではなく、建築を使う人間のことを考えているということになろうか。
僕は横浜国立大学の建築学コースを卒業して、YGSAを修了した。
建築を学び始めて、なんとなく面白いと思っていることが、建築の作る空間や状況の抽象的な新しさを見つけることから、より具体的なところへシフトしていった気がする。図式や構成の新しさに入れ込んでいたのは確かに覚えている。しかし、どこかのタイミングから図式の新しさが飽和したように思われる。多分、豊島美術館と石上純也の"雨"の成功が大きかった。
403architectureの設立以後、大学外の活動が増えると同時に具体的な要素が飛び込むようになった。施工方法や、運営、デジタルファブリケーション、素材、まちづくり、人間。こういったものも建築の形を決定するルールになり得るということと、建築の形を必ずしもゴールに設定しなくてもいいということがわかってきた。なにより、頭の中の抽象的な図式よりも目の前の素材や人間を面白いと思えたことに開放感があった。
言葉のニュアンスの問題として、まちは具体的な要素の集合体で、都市は抽象的な要素の集合体だと僕は捉えている。
YGSAでは都市だ都市だとなんども聞かされた。課題は想像力を鍛えるためのフィクションだ。
403では目の前の素材と向き合った。
徹底的に俯瞰させられた反動として、徹底的にマテリアルと向き合った。結果的に403を設立した後の山本スタジオでは最も納得いくものができた。浜松で活動するきっかけとなったプロジェクトである。JRの南口に日系ブラジル人のための地域社会圏を構想した。

抽象化の矛先に気を配れば、何でも面白くなると思えたことが大きかった。所謂、誤読である。
だからこそ、どこで何を捉えるか、面白いと思うかを選択しなければならない。僕は具体的に実感できる要素が最も多かった浜松を選んだ。
何でも面白くなるということが、最も有効に機能する現場が地方にあると感じたのである。
面白がる回路は抽象的で建築的構築力の発動し得る脳みそから作られているから、YGSAで鍛えられた都市と抽象は回路として残ったようだ。抽象化はまちづくりに時間を存在させる、最重要行為である。
地方都市の中心市街地では自分たちの街には基本的に何も面白いものがないから、何か違う他者を持ってきてまちおこししようという風潮が強い。どこでもそうだと思う。アートに頼って、キュレーターに頼って、ご当地キャラに頼って、歴史に頼って、B級グルメに頼って、助成金に頼る。頼りっぱなしだ。そして皆誰かを否定する。商業者はイオンと行政を批判して、行政は商業者を批判する。イオンは皆から批判される割に一般市民からは絶大な信頼を受け広大な駐車場はいつもいっぱいだ。たまにまちづくりの成功者が講演に来ると自分の街ではそれはできないなと突っぱねる。現状は日本のどこでもそんなとこだと思う。
空気感として停滞している日本の地方をどうにかするとなった時には、解像度を上げて、把握できる要素の数を増やす作業がまず必要である。
浜松に拠点を移し、いろんな方々と出会い、把握できる要素が増えた。
結論としてはそれらを面白いと思ってみるだけでまちづくりの燃料が出来る。この燃料を持続的に駆動させるエンジンの仕組がそれぞれの専門性である。(→参照http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/hx5rpG17aYe3UAnHgRtB) この専門性は専門性の数だけチャンネルを持っているし、それが機能する矛先も限定的だ。面白いと思うということはどういうことか。違う価値観でその物事を見て、違う価値を与えるということだ。
専門性が目的を示し、一般市民をおしなべて動かすのは近代であるとしたら、そういう一元的な解決策はもう機能しないのがポスト近代である。
前置きが長くなった。
僕らが生きるこの時代において、明確な目的を示さないまま、ひとまずまちづくりの燃料さえ作っておけば、あとは勝手にそれぞれの専門性がやってくれるんじゃないかということを研究しているのがRE03CITYLABと言える。
CITYLABとは、行政から、クリエイティブセンターが担う事業と適した場所の提案のための研究を依頼され、SENAの助成金を使い、浜松まちなかにぎわい協議会の協力を得てuntenorの事業として昨年11月から進めているインフォーマルな研究室である。
徹底的に具体的な事物を面白がり、それを徹底的に抽象化して持続させる枠組みをつくろうと考えた。
御上が求めていたクリエイティブセンターは箱物で所謂「アーティスト」や「クリエイター」が集い、中小企業とコラボレートして商品開発するような場所である。
しかし、箱物が箱物だけでは機能しないのはもはや明白で、クリエイターという存在の定義も曖昧で、従って中小企業との商品開発も既成事実に基づいたありふれたものになるのは自明であった。
まず私たちはクリエイティブ=創造性の定義を再設定した。
現代における創造性とは、独創性、新奇性、オリジナリティのことではなくて(デュシャンを引用するまでもなく)、今あるものを読み替えて面白がることである。創作に限定して言えば、一次創作二次創作という区別が機能しないということである。今あるものならなんでも面白がることができるから、なんにでも創造性の種はあるし、誰にでも創造性は担保される。従ってクリエイターの条件は誰でも当てはまる。現代のクリエイティブネスはより広く開放されている。
また私たちはクリエイティブセンターとは場所のことではなくて、システムのことであると定義した。それは場所だけ考えてもその場所がうまく機能しないからということと、この場所が最もクリエイティブであるということが上記したように論理的に不可能だからである(誰でも何でもクリエイティブになる可能性があるから)。
すると、このシステムは所謂クリエイターや芸術だけではなくて、まちづくり全般のことを指すようになる。今までの専門性としてのクリエイティブネスは限定的に専門性の矛先が生じているエンジンの部分として任せ、誰にでもまちづくりのモチベーションが担保されるようなシステムをまずは作るということである。解像度を上げ、面白がることの先には、関係性の再構築が待っている。
結局、まちづくりのモチベーションとはなにかということである。僕は社会関係資本だと思う。それで、面白がる矛先にあるのは個別の固有名詞と、固有名詞の間にある関係性である。つまり社会関係資本を読み替えて関係性に新しい価値を与え、社会関係資本が深まったり、広がったりすることがまちづくりの(生きることそれ自体の)モチベーションになる。
こうして私たちのクリエイティブセンターの提案はネットワーキングプロセスをデザインすることに近づいていった。
この時、考えなければならないのは、一元的な解決策はないということである。
つまりきっかけは具体的にしか考えられないということである。元となるコミュニティのようなものがひとまず試験体として必要だ。しかしコミュニティなら何でもいいということではなくて、ネットワーキングを考えると、それは閉じつつ開いた状態でなければならない。地縁型のコミュニティをまるごと相手にすると排他的になるからである。彼らの昔ながらのコミュニティは結束力が強い分、外部に対しては排他的である。一方、テーマ型コミュニティというものは共有するものが部分的で趣味だったり、店だったり、人だったり、スポーツだったり、イベントだったり、を共有した緩やかなコミュニティである。彼らは閉じつつ、開ける。開けるので、他のテーマ型コミュニティに属している人間とも共有しているものを共有出来さえすれば、つながる。
そもそも現代人は複数のコミュニティを幾つも重ねて抱えている。平野啓一郎の分人主義にも見られるようにどこかのコミュニティではキーパーソンだが、どこかでは脇役という事態が往々にして起こる。このような複合的な状況に対処していく必要があるのだ。
これらのすべてのパターンを抽出し計画することは不可能に近い。故に個人レベルまで解像度を上げるためにまずコミュニティを抽出し、解像度を上げ、その上で俯瞰し、コミュニティを基準にして代替可能なシステムを提案することが現実的な解法となる。(参照 http://qc-3.blogspot.com/2011/12/qc306-untenor.html)
今回抽出したのはCITYLABの参加メンバー自身である。自分たちの関係性がどれだけ深まり、広がったか自体が自分たちが自分たちに設定した評価基準である。
この解法は具体的なレベルではあくまで一つのコミュニティに対して有効である。しかしながらコミュニティを固有名詞に分解した上で抽象化することでコミュニティレベルでの転用が可能となる。まずもって、統一された解法はなく、固有名詞が多様であり関係性も無限にあり、コミュニティも1つとして同じものはないという前提から、ボトムアップ型のまちづくりにつなげていくための方法論である。
私たちは、コミュニティに対する解像度を上げ、固有名詞を把握し、関係性を読み替える、あるいは組み替える、この一連のネットワーキングプロセスとしてのクリエイティブセンターをカードゲームに読み替えようと考えた。固有名詞同士に関係性を与えるきっかけとして、自分たちが知っている固有名詞が手札になったカードゲームである。

従って、このカードゲームから生まれるプロジェクトにも、固有名詞にも、客観性はない。主観性しか存在しない。あくまでカードゲームを実践するコミュニティが育ち、関係が広がることがまちを作っていく。具体的な要素を読み替え、コミュニティの関係が深まり、且つ広がっていく。そのような具体的なテーマ型コミュニティの持続的な発展と深化が今私達が考える、まちづくりということである。
まちをつくるモチベーションは一人一人が読み替えによって自分と自分の周りの状況を肯定することから始まる。という「具体的な抽象化」が建築を学んだ経験、建築的思考から導きだされた。
最終講評会は1/22。
新しいまちづくりのきっかけになればと思って設えている。
辻 琢磨